平成18年に赤城町は渋川市と合併。資料中、断りなく「本村」は「本町」に、「赤城村」は「赤城町」に変更しました。
その他、解説については、昭和63年当時の記述を採用しています。
2010年11月 6年生が調査をし、写真に納めました。解説や感想は、地域交流会で発表した原稿です。
あ
安産の信仰あつい赤谷十二宮(あかやじゅうにぐう)
【長井小川田・藤木】 藤木から棚下へ道が大きくカーブして,南斜面の林を抜ける道ばたに,「赤谷の十二宮」の意志宮が祀られている。十二様は,山仕事をする人の守り神で,諸処に存在するが,この十二宮は「安産」の守り神として信仰され,春秋2回の例祭は若い母親や幼児で賑わう。
赤谷十二宮は、古くから猟師や木こりなどの山仕事をする人の守り神でした。でも、安産のご利益もあります。
祭りは4月12日に福引きをします。地区内に子供が生まれると、お札をもらいます。
昔は、結婚後間もないうちに、若い妊婦の安産祈願と無事出産した幼児を背負った母と子のお礼参りをしました。
わたしは、昔、山仕事をする人の守り神だと聞いて驚きました。でも、どうして安産にも信仰を集めるようになったのか気になりました。これからも、赤谷十二宮の言い伝えを残して大切にしたいです。
2010 AmiM
い
石段を登って深山の天狗様
【深山五郎入】 深山の鎮守「金山八幡宮」は,町の東方,オベラ峰にあって「深山のお天狗様」として広く人々に知られている。
こんもり茂った杉や松の大木,360余段の石段,奉納された18万余の木刀や天狗の面など,驚くばかりである。金山宮は,武術・養蚕・農業の神である。
深山は、沼尾川に沿って早くから開けたところで、利根の東入りや沼田と大胡・前橋などを結ぶ交通の要所でした。
金山宮は東にあって「深山のお天狗様」とも呼ばれています。うっそうと茂った松や杉の大木、「三百六十余段」の長い石段や、奉納された十八万四千余の木太刀、拝殿に納められている大天狗や小天狗の偉大な面など、信者の深い信仰心が分かります。また、お天狗様とは、「法神流」をはじめとする武人の神様でもあります。
深山のお天狗様は、法神流や天狗飛び切りという術が使えるのですごく信頼されていると思いました。
石段は、360余段あるので、登ってるだけで鍛えられると思いました。
2010 MasayaS
う
馬供養 語る路傍の馬頭観音
【永井小川田・上南雲】 南雲小の西,上南室から藤木へ登る旧道の「馬坂」に馬頭観音や庚申塔などの石仏が立っている。
昔は,農家の人々は馬の背に荷物を積んで田畑へ往復したり,馬の力で耕作をした。馬の存在は貴重であった。この馬の供養のため,立てられたのが馬頭観音である。
先ずはじめに、私は馬頭観音のある「馬坂」について調べました。「馬坂」とは名前が示すように、昔は上南室の農家の人々が坂の尾上の農耕地へ馬を引いて毎日のように通いました。また、藤木の人も坂の下の上南室を通って、津久田方面の往復に馬を使いました。
つぎに、「馬頭観音」ですが、「馬頭観音」は馬の生死が農民の生活を左右したため、馬の供養や健康を祈って建てられました。このことから馬頭観音と農家の人々には深い関係があったことが分かりました。
馬頭観音には、人々の馬への感謝の気持ちが込められていると思いました。
また、実際に現地に行ってみて、暗くて少しこわい感じがしました。草や木がたくさんあったので、、それを切れば明るいイメージになり、これから沢山の人に知ってもらえると思います。
2010 ArisaM
え
海老坂(えびざか)を下って渡る久保(くぼ)の橋
【旧沼田街道】 海老坂は,旧沼田街道が溝呂木方面から来て,小川田の原を過ぎ,松の木坂を下って沼尾川を渡る手前にある。 この坂を下って久保橋を渡ると,「南雲宿の本陣」に着く。カスリン台風によって沼尾川が氾濫して橋は流され,通行不能となった。いまでは,海老坂も雑草が茂るままである。
お
大水に負けぬ大杉 虚空蔵(こくうぞう)
【永井小川田・日陰】 大規模農道が,沼尾がにかかる交差点=日陰の信号の手前に「虚空蔵の大杉」が天高くそびえている。
この大杉は,沼尾川のたびたびの洪水でも,一度の被害もなく,濁流は大杉を避けて流れたという。それは,樹下の虚空蔵様が守護したといわれている。
か
カッコウが よい子をも待ってるキャンプ場
【鈴ケ岳の西麓】 鈴ケ岳西麓の緑豊かな自然のふところに,観光レクリエーション基地として昭和61年に作られた「関東ふれあいの道」沿いに作られた「村営(現市営)キャンプ場」が開設された。
このキャンプ場は,毎年7・8月の2ヶ月間開場する大自然の中の憩いの場・本格的なキャンプ場である。
き
郷土の名書家 茂木香園(もぎこうえん)
【長井小川田・年丸】 沼尾川の清水橋から左に折れて,年丸の部落を登り切った十字路に,書家 茂木香園の彰徳碑が建っている。
香園は年丸の人で,農業に従事していたが,熱心に書道に励んで上達し,多数の弟子を養成した。碑は弟子たちが恩師を広く表すために建てたものである。
く
草深き 石井街道(いしいかいどう) 五料坂(ごりょうざか)
【深山・五料坂】 五料坂は,利根郡の片品から青木・砂川を経て,深山を通り沼田街道に接する唯一の近道であった。
今から100年ほど前までは,利根の木炭や薪,山菜が,前橋方面の佐藤・荒物・雑貨品などが馬の背で運ばれて頻繁に往来した大切な生活の道であった。
け
境内に 老杉(ろうさん)そびえる 八幡宮
【長井小川田・辻久保】 南雲小学校の東方100m,数百年を経た老杉に囲まれた神社で,明治43年,久保の諏訪神社,南雲の熊野宮・高釜と年丸の大山祇神社,上狩野と長井坂の神明宮,藤木の稲荷社を合祀した。拝殿には,立派な太々神楽殿がある。創祭は8月15日。
八幡宮は、南雲小学校から当方へ約百メートルのところにあります。境内はたくさんの老杉に囲まれています。
明治時代からでき、おもに歌舞伎舞台としてや祭りなどに使われてきました。昔は、当八幡宮、上野の神明宮、辻の八坂神社を南雲の村民が三大祭りなどとして神社を使っていました。
久保の諏訪神社、南雲の熊野宮、高釜と年丸の大山祇神社、上狩野と長い坂の神明宮、藤木の稲荷宮七社を合わせて、南雲の八幡宮にしました。
調べてみて、昔八幡宮がどのように使われていたか、どのように八幡宮ができたかなど、色々なことが分かりました。
誇りに思えるように・・・・・・・
歌舞伎や祭りで使われていたことを忘れず、また、たくさんの人に知ってもらいたいです。
2010 SenaI
こ
こんにゃくと きのこは 南雲の特産
【特産物】 赤城町には見渡す限りの「こんにゃく畑」が広がっている。南雲地区の栽培面積は,約60ヘクタールで,赤城町全体の栽培面積の27パーセントである。
また,南雲地区では古くから「椎茸」「しめじ」「なめこ」等のきのこの栽培をしており,今では大きな収入を上げている。
さ
ざくろ供(そな)え 子育て祈る 鬼子母神(きしぼじん)
【長井小川田・年丸】 鬼子母神は,梵名(古いインド語)で「訶利帝母(アリテイボ)」という。他人の子を食うことが多かったので,釈迦はその子を隠して彼女を戒め,他人の子を食うかわりに味のよく似た「ザクロ」の実を教えたという。その後,子育ての女神となった鬼子母神にザクロを供えて祈る信仰となった。
し
自然の宝庫 鈴ケ岳(すずがたけ)
【赤城山寄生火山】 赤城の西麓,町の東方に神鈴を伏せた姿の鈴ゲ岳(標高1564m)がぞびえている。山麓にはブナの自然林・石楠花の群落・珍しい鳥類の棲息地があり,県の自然環境保護地区に指定されている。
登山道や頂上には,「鈴ケ岳神社」や「御嶽山大神」などが奉祀されている。
南雲小学校の屋上から見た赤城山。一番左手が鈴ヶ岳。手前に見える二つの頂が、奥からモロコシ山、ヤハズ山。鉄塔が見えるのが地蔵岳。右手が鍋割。
(2010.12.27)
す
水害の 爪あと深い 石地蔵
【水害供養の石地蔵 長井小川田・年丸】 年丸橋のたもとに,目の覚めるような真っ赤な頭巾と前かけをつけた石の地蔵様がある。これは,昭和22年に起きた沼尾川水害の犠牲者の霊を弔うために建立されたものである。水害は,カスリン台風によるもので,死者・行方不明83人,重傷14人の犠牲者を出した。
ぼくが調べて分かったことは、あの石地蔵には、カスリン台風によって水害が起きたときの犠牲者の霊をとむらうためにつくられたということです。さらに調べると、この石地蔵は、昭和54年に建てられたものであることが分かりました。
県内では、暴風雨による被害が多く、特に赤城山を中心とした地域に被害が多いことが分かりました。
ぼくは、死者がいっぱい出たことに驚きました。石地蔵は古くなっていて、まわりに何もなくてさみしそうでした。ぼくは、まだとむらいきれていない魂は、石地蔵をきれいにしてとむらえたらいいと思いました。
また、犠牲者のことを忘れないでいきたいです。
2010 MzukiH
せ
戦国の歴史を秘めた とりで跡
【長井坂城趾 赤城町と昭和村との境】 長井坂は,関越高速道棚下トンネルの真上にあり,200メートルの崖下に利根川を臨む位置にある。この地には,戦国時代に築かれた「長井坂城跡」と「旧沼田街道」が名残をとどめている。
城は,白井の長尾氏は沼田の真田氏に備えたものであり,天正10年に落城した。
そ
村民を水害から守る大堰堤
【深山・沼尾川】 昭和22年9月15日のカスリン台風は,赤城山付近に集中豪雨をもたらし,沼尾川が氾濫して多くの被害を出した。
二度とこのような災害の起こらないように,沼尾川に石やコンクリートで堤防や砂防ダムをつくって災害に備えている。この堰堤も災害復旧の役割をしている。
た
高さ抜群関越道の沼尾川橋
【長井小川田】 関東地方と新潟県を結ぶ関越高速自動車道は,昭和60年10月に全線が開通した。赤城町内には,「赤城インターチェンジ」が設置され,沼尾川には高さ67m,長さ606mの沼尾川橋が架橋された。
この橋は,永井川橋・片品川橋に次いで高さでは日本第3位といわれている。
南雲小学校の屋上から沼尾川橋を望む。関越道は新潟と関東を結ぶ大動脈。
向こうに見える山が榛名山。その向こうにはっきりしないが浅間山が見える。
(2010.12.27)
ち
地域の信仰あつい小川田弁天
【長井小川田・小川田】 小川田の細長い水田が続く中央部東端に美しい御神灯が建っている。ここは弁天池の南の端で,御神灯は明治28年に建立された,高さ3.5mのものである。
小川田の弁天様は,女人の火伏せの神として信仰されており,春秋の例祭・元旦の年始には地域の人々でにぎわう。
弁天池は、長井小川田にあります。弁天池の中心には、御神灯が建っています。この御神灯は、明治28年12月に建立されました。御神灯より奥に鳥居があり、そこに弁天様があります。弁天様は、女人の被伏せの神として祭られています。
毎年、4月25日、10月15日にお祭りが行われます。お祭りの前の日には、掃除が行われ、おもに草刈りをします。その他にも、あんどんやのぼりを立てたりします。元日には、小川田じゅうの家の人が集まって、年始の挨拶を交わします。
私は小川田弁天を調べてみて、近くにあるのに知らないことがたくさんあって驚きました。
そうじやお祭り、そして年始のあいさつもこれから先ずっと続いてほしいです。
20210 AyaneI
つ
月待ちの信仰伝える二十一夜塔
【長井小川田・上南雲】 月待ち講は,月の三日・十三夜などの夜,月野で供物を供えて,読経・ご詠歌などを唱えて,勤行が終わると共同飲食や雑談をする。講で使ったろうそくを陣痛の時に燃やすと,無事出産するという。
上南雲や藤木には,二十一夜塔(如意輪観音像)が残っている。
私は上南室の「二十一夜塔」について調べました。そもそも「つきまち」とは、何のことでしょうか。月待ちは、特定の月例の晩に集まり、月の出を待つことをこう呼ぶそうです。二十一夜塔での「講」は、女性がほとんどで、おもに安産や小宝祈願が多いです。また、講のろうそくを持ち帰り、陣痛のときにともすと、火が消えるまでに子どもが生まれると言われています。
なお、十九夜、二十一夜、二十二夜は主尊(守本尊)を如意輪観音としているそうです。
月待ちは、江戸の中後期頃から流行し、熱心に祈るというよりは、仲間との会合を楽しんでいたようです。
調べてみて、どうして月の出を待つのかが疑問でした。これは、調べても分かりませんでした。
現地に行ってみて、主尊のまわりに雑草が生い茂っているのに気付きました。なので、草を刈れば奥にいる主尊が目立つと思います。
二十一夜塔自体が明るい色なので、更に目立つといいなと思いました。
2010 HonokaI
て
寺屋敷昔を偲ぶ五輪塔
【深山・寺屋敷】 深山から沼尾川沿いに北進すると,「寺屋敷」と呼ぶ平地に出る。近くの畑から五輪塔の一部が発見されている。現在は,竹やぶと桑畑の名残をとどめているが,深山の雙永寺は,ここから移動したとの説もある。近くには,「鎌倉道」と称する旧道もあって,往事の夢がよみがえってくる。
と
堂の内宝暦絵馬の色あせて
【長井小川田・年丸】 年丸部落の北,茂木家基地の観音堂の中に二面の歌舞伎絵馬がある。
一面は,源平合戦,宇治川の先陣における畠山重忠の馬背負の場面であり,他の一面は一ノ谷における悪七兵衛景清の豪腕ぶりと思われるが,退色が目立って不明である。宝暦3年,奉納者は,茂木平蔵。
な
ながめよし深山のシンボル雙永寺
【深山・中棚】 曹洞宗の鈴岳山雙永寺は,深山の東,オベラ峰の中腹にあり,眺望絶佳,赤城登山の西玄関となっている。
寛永10年(1670),愚明正察和尚の開山と伝えられ,本寺は子持の雙林寺である。境内の寛永堂は,カラス天狗伝説や須田朝造の算額などで知られている。
雙永寺は、寛永10年(1670年)、愚明正察和尚の開山と伝えられ、本寺は、子持の雙林寺とされています。昔、雙永寺の床下から、意味の分からない言葉が刻まれた3枚の銅板が出てきました。これは、徳川埋蔵金に関係すると言われています。また、雙永寺は埋蔵寺、見張り所とされていたと言われています。
南雲カルタの「寺屋敷 昔をしのぶ 五輪塔」の五輪塔の場所は、今現在、竹やぶと桑畑で名残をとどめていませんが、雙永寺はここから移動下との説もあります。
私は、雙永寺のことを調べてみて、身近にありながら、私の知らない出来事が多くあり、驚きました。とくに南雲カルタの「て」の札の場所から移動された説があることは知りませんでした。
身近にあるお寺でも、調べたらもっと身近に感じられました。
2010 KozueY
に
にこやかに寄りそう双体道祖神
【辻の双体道祖神・長井小川田・辻】 道祖神は,日本古来の邪悪をさえぎる「ヤチマタの神」と中国の道祖との習合で村境や道端に立って悪疫等の侵入を防ぎ,村人を守る神とされてきた。道祖神は,文字道祖神より石像の方が知られており,特に双体道祖神は有名である。南雲地区には,辻の双体道祖神が一基だけである。
ぬ
沼田道旅人憩う観音堂
【軽浜坂の観音堂・長井小川田・軽浜坂】 旧沼田街道の南雲宿から今宮へ向かう途中に軽浜坂がある。坂の途中に「かるはまの観音様」がある。江戸時代には街道を往来する旅人の憩いの場所であったと思われるが,今は修理もされず荒れはててしまった。天井に描かれた絵馬もその面影もない。3月18日が祭日である。
ね
念仏に後生を託す供養塔
【久保坂の供養塔 長井小川田・辻久保】 長井小川田8区(現南雲第3自治会)の小松屋から久保坂にかかると,右手に庚申塔や日待塔が立ち並んでいる。その中に「奉造立御日待念仏供養塔」とある日待塔が目につく。これは,特定の日に精進潔斉して日の出を拝し,念仏を唱え,供養塔を造立して後世に伝えたものである。田のももう一基ある。
の
農免に観光りんご園とゴルフ場
【農免道路】 赤城町から昭和村を経て利根村に至る大規模農道(農免道路)沿いに南雲を中心に焼く10ヘクタールの「リンゴ団地」ができ,最近では,「観光直売所」も目立つようになってきた。また,二ケ所のゴルフ場が設置されて,観光農業とレクリエーションの調和した開発がされている。
は
原中にぽつんと蕉風
【棚下のひばり塚 棚下・上の原】 沼田街道に沿う棚下の上の原に細長い川原石の芭蕉句碑がぽつんと建っている。
「原中や ものに母(も) はせを翁
都(つ)かず 啼く雲雀」 素輪書
(裏) 安永庚子九年 素菊 建
この句碑は赤城村(現赤城町)最古のものである。素輪は,前橋の松井素輪 素菊は棚下の堤素菊。
ひ
ひっそりと松の木坂の庚申塔
【松之木坂の庚申塔 長井小川田・松之木坂】 旧沼田街道の松之木坂は,沼尾川の右岸,日影斜面にある山林内の険しい坂である。この坂が大きくカーブする地点に堂々と立つ,掘られた文字の素晴らしい庚申塔がある。
庚申塔 寛永十二庚申天 (萩原)賢和書 印
小川田日影連中
ふ
ふれあいの道熊笹を分け登る
【深山から赤城沼尻】 関東ふれあいの道は環境庁(現在環境省)の補助を受け,自然歩道を設置したもので,本町には「いにしえの文化の道」と「カラマツと熊笹の道」の2コースが設置された。
後者は,深山から赤城キャンプ場を経て沼尾川沿いに赤城山の沼尻に至る歩道で,森林浴と眺望が素晴らしい。
へ
辺境に敵襲告げるのろし塚
【長井小川田・原】 旧沼田街道と広域農道が交差する小川田の原のあたりに方10尺くらいの「のろし塚」があった。高台の広い野原の傾斜した地に土を高く盛り上げたものであり,戦国時代に津久田城主が沼田勢の来週に備えてのろしによる連絡網として設置したものであろう。今は,耕作地となり面影はない。
ほ
方神流武名の高い須田房吉
古武術【深山】 須田房吉は,深山の人で,楳本(うめもと)政武から方神流の奥儀(奥義)を次ぎ,諸国遍歴の後,江戸に道場を開き,また,郷里に帰って門弟を養成したが,利根郡薗原で一真流の中沢伊之吉と争い,中沢方の鉄砲のために薗原の露と消えた。深山の天狗とは,方神流の飛切りの術からきているとも言われる。
江戸時代の剣の達人、楳本法神が深山の地で独自の剣法を広め、多くの剣豪を生み出しました。楳本法神の後継者であった須田房吉は、前橋や江戸に道場を開き、多くの弟子を抱えました。明治時代に法神流伝来碑が建立されましたが、昭和22年の大水害(カスリーン台風)で流失、平成3年、地域住民の協力で立派な伝来碑が再建されました。
昭和4年の天皇即位記念の天覧試合で、持田盛二が優勝して、法神流のなが全国に広まりました。
わたしは、法神流伝来碑を見たことはあったけれど、あまり関心ありませんでした。でも、調べていくうちにとても興味が湧いてきました。
わたしは、剣法の法神流などをもっと全国、世界に広めたいです。
2010 YunaT
ま
前峯に稲荷神社と百庚申
【清水の百庚申 長井小川田・清水】 清水の前峯は津久田の千石から小川田へ抜ける日影道にあたり,稲荷神社や百庚申・百番供養塔などが祀られている。
百庚申は,60年に一度の庚猿(かのえさる・十干十二支)の年に建てられたものであり,文政4年・万延元年・大正9年・昭和15年の4基が目立っている。
み
みんなで保護しようヒメギフチョウ
【ヒメギフチョウ=県天然記念物】 「春の女神」と呼ばれる「ヒメギフチョウ」は,本町の北赤城地区だけに住む天然記念物の昆虫である。
心ない人たちの乱獲によって絶滅に瀕しており,県では,この貴重な蝶を保護しようと「捕獲禁止」の横断幕を設置し,また,渋川市文化財保護課・地元住民や南雲小学校職員や児童,「赤城姫を愛する集まり」等と手を携え,保護活動やパトロールを行っている。
む
村めぐる八坂祭りの子どもみこし
【南雲祇園の名残り】 南雲の八幡宮に合祀されている八坂神社の「祇園祭」は,北毛唯一の「南雲祇園祭」として広く世に知られていた。
7月31日の例祭は,部落八組の競った装飾の花車屋台・神輿の渡御・祇園囃子など近郷近在の人々を醉わせたという。今では子どもみこしが昔を偲ばせる。
め
明治六年の開校ほこる南雲小
【渋川市立南雲小学校】 南雲小は,明治6年に「横野学校」として辻久保の八幡宮の境内に開校した。横野とは赤城西麓の広漢たる原野の通称であり,旧横野村とは関係がない。
当時は,小川田・深山・棚下が校区であった。校名は「南勢多第十四尋常小学校」などの改名を重ねて現在に至っている。
も
森のかげひっそりたたずむ芭蕉の句碑
【今宮の芭蕉句碑 長井小川田・今宮】
あかあかと 日は
つれなくも 秋の風 芭蕉翁
万延紀元 孟冬 杏林舎猿丸 建
沼田道の今宮にある芭蕉句碑は,久保の角田貫哉(猿丸)が芭蕉の遺徳を偲び,俳句の向上を願って立てたもので,日暮れの山道を急ぐ旅人にぴったりの句である。
や
山女魚の泳ぐ沼尾の清流
【沼尾川の清流】 沼尾川は,源を赤城の大沼(おの)に発し,鈴ヶ岳の北方を流れて,本町に入る。全長12kmに及び,深山・長井小川田を貫流し狩野々で利根川に合流する。
山女魚は谷川の清流に住む体長約20cmの魚であり,水温・水質に敏感であるが,沼尾川には生息しており,釣り人も見られる。
ゆ
由緒ある歴史を偲ぶ観音堂
【寺後の観音堂 長井小川田・寺後】 南雲の高秀寺裏の坊坂を上り詰めた寺後の中央に「寺後の観音堂」がある。
本堂や境内が整理され,地域の府会進行の姿が見える。境内の東から北側には,如意輪観世音像・えんま大王像・六地蔵石像などの石造物が並び,堂にかけてある「わに口」は赤城町で最大のものである。
よ
芳ヶ沢百万ドルの夜景かな
【北赤城山・芳ヶ沢】 大規模農道を日影の信号から小田原の原に上り詰めると,ぱっと視界が開けて眺望が素晴らしい。特に,東側の高原に展開した「芳ヶ沢」の夜景は絶景である。
沼田・渋川・伊香保が一望でき,ドライバーも車を止めて見とれるほどであり,函館の夜景にもひけをとらない。
ら
乱世の名残止める勘解由様
【勘解由の松 永井小川田 小川田】 小川田の石田春治氏宅の入り口に,「勘解由様」と呼ばれる石祠(石のほこら)がある。
これは,戦国時代に津久田攻めに向かった真田方の中山勘解由が戦いに敗れてこの地において討死を遂げた。里人は一本の松を植え,石祠を建てて霊を祀った。今は松も枯れて石祠だけが残っている。
戦国時代、勘解由様は、津久田攻めに行きました。しかし、津久田勢の大勢に囲まれてしまったため、身近に迫る敵から逃げながら、南雲へ向かいました。そして、草の生い茂る田へ踏み込み、討ち死にをとげました。
そのため、里人はこの地に一本の松を植えました。いっしょに霊をとむらうために、この石碑を建てたのです。この石碑は今も残っています。この石碑は、Chinatsuちゃんの家の入り口にあります。
調べてみて、有名な武士がここで討ち死にをとげたということに驚きました。有名な武士なのにどうしてお祭りをやっていないのかなと思いました。これからは、誇りに思えるように、お祭りをすればいいと思います。
2010 ShoyaI
り
りんどうが咲く山鳥坂の道しるべ
【深山・山鳥坂】 沼尾川の深山大橋を渡って左の急な山鳥坂を上りつめると,道が二つに分かれている。ここに「道しるべ」があり,右は「青木・砂川」,左は「久保坂・沼田」と示されている。他に一基あり,どちらも今上天皇(きんじょうてんのう:今の天皇)のご成婚記念に深山青年会が建設したもので,貴重な文化財である。
深山の深山大橋を渡って、左の急な山鳥坂を登ると、道が二つに分かれています。ここに道しるべがあって、右へ行けば「青木・砂川」、左は「久呂保・沼田」、西は「長井小川田・棚下道」と書かれています。左の道をもう少し行くと、もう一つ道しるべがあって、北は「久呂保・沼田」、西は「長井小川田・棚下道」書いてあります。二つとも、1959年の今上(きんじょう=現在の)天皇のご成婚記念に深山青年会が造ったもので、青年会の事業の一端がしのばれる貴重な文化財です。
道しるべをつくったということは、通る人が多かったからかなと思いました。この道しるべを調べて、交通がどのように変わったか、知りたいと思いました。この道しるべは、今は土や落ち葉で埋まって少ししか見えません。なので、土などをなくして、ちゃんと見えるようにしたいと思いました。
2010 RyojiS
る
瑠璃光の薬師を祀る高秀寺
【南雲の高秀寺 長井小川田・田中】 高秀寺は,南雲沢の北側台地の景勝の地にある。本町唯一の真言宗の寺院である。瑠璃山高秀寺と呼び,長各寺派である。創建は弘仁二年(811年),僧実慧(じっけい)の開山と伝え,本尊は薬師如来である。
寺宝も多く,境内には湧泉池があり,菖蒲が自生しており,天神宮が祀られている。
れ
歴史を語る辻の本陣
【南雲の本陣 長井小川田・辻】 旧沼田街道の宿場であった南雲は,北の森下へ8km,南の溝呂木へ7km。広々とした棚下の原と津久田の原の中継点として往寺は車馬の往来で栄えた。
本陣の家は,つい最近まで萱葺きの屋根の昔の姿で,参勤交代に使用した大名の宿札を保存している。昭和63(1988)年,母屋を改修。
ろ
老松の枝ごしに見える御神灯
【栗生坂の御神灯 長井小川田・栗生坂】 棚下不動尊から左折し,急坂を登っていくと,眼界が開け,やや平らとなる。ここからの眺望が素晴らしい。栗生坂(九竜坂)である。岩頭にしがみつく老松の枝ごしに常夜灯と石祠が建っている。眼下には,棚下不動の本堂・雄滝の全景が見える。今は道が荒れて通れない。
わ
わさびの育つ南雲の清水
【南雲の特産物】 わさびは,アブラナ科の多年草で,谷川のほとりの生え,また栽培されている。赤城町には約10戸の栽培農家があるが,その大半は南雲地区である。
すぐれたわき水のある南雲では,大正の初期に深山の須田清馬氏が栽培を始め,「深山わさび」として知られたという。